映画「佐賀のがばいばあちゃん」を観た。
吉行和子扮する、がばいばあちゃんは、「明るい貧乏」と「暗い貧乏」、貧乏には二通りあると説く。
当時はみんなが貧乏だったから暗い貧乏はなく、世の中は明るい貧乏だらけだった。
佐賀といえば、三島由紀夫著「葉隠(はがくれ)入門」(新潮文庫)を読んだ。「葉隠聞書(ききがき)」、略して「葉隠」は佐賀、鍋島藩の山本常朝(じょうちょう)によるものだ。鍋島藩の佐賀城は、別名「葉隠城」と言われたという説もある。
「葉隠聞書」については、次号でもっと触れる。
「佐賀のがばいばあちゃん」の時代は、高度成長への助走期。庶民の「三種の神器(じんぎ)」が電気洗濯機や白黒テレビの時代。モノを作れば売れる世相の始まりだった。
リュウさん少年も明るい貧乏だったが、それなりに充実していた。
名古屋の定時制高校普通科。定時制は全日制の対語で、夜間高校。
新潟の山奥育ちは泳げない。水泳部に入った。
顧問教官からクレーム。
「泳げないのに入ったのか?!」 「はい、泳げないから入りました」
泳げるようになった。
バスケットボール部が長かったが、ついに正選手にはなれなかった。
生徒会活動や弁論部、はたまた英語クラブだなどと、各部を渡り歩く日々を過ごした。
弁論部にまで何故入ったのか分からない。誘われるまま、ほいほいと承諾していたのだろう。大阪の弁論大会に出た。「それで訴えているつもりか!」と、聴衆から野次が飛んだ。当然だ。本来の代表が行けなくなり、下手くそな自分が代打だった。
上級生との選挙に勝ち、生徒会長を一期やった。
お蔭で成績優秀・・・!
学校行事扱いで希望者をスキーに連れていってくれた。
スキー発祥の地、新潟育ち。俄然ゲンキが出た。ツアーには70〜80人が参加。
初心者が多い。指導の都合もあるのだろう、腕前ごとに10人ずつの班が編成され、ゼッケン番号が順位を示す。
道産子が居たせいか、自分の限界か、3番から上にはなれなかった。
夏休みには、登山にも学校から何度も連れていって貰った。
学校行事扱いということは、教育的観点も含まれるのだろう。参加者は授業後に残って、山岳知識や登山用具の扱い方などの指導を受ける。
軽い乗鞍あたりから入り、成長しても槍ヶ岳ふもとの涸沢(からさわ)止まりだった。
そのうちに魅せられ、素人仲間3人で穂高縦走を企てた。友人同士でリーダー不在、体力づくりや事前準備、山岳知識不足の暴挙。
目標の縦走は果たせなかった。
この記憶が40年経ってよみがえり、「北アルプス山麓歩き」を趣味に加えた。
登山ではなく、まさに「山麓歩き」。穂高連山を仰ぎ見て、梓川(あずさがわ)の岸を、もくもくと歩くことしか出来ないが、なんとも言えない荘厳さや爽快感がある。
謄写版は、ガリ版や孔版のことで、往時の軽便印刷方式の主流。
テスト用の問題集や各種文書は、教師が自分で執筆・編集・印刷をした時代だ。
謄写版器具一式を購入。
数名の級友に無理やり原稿を依頼。クラス中が喜び驚く顔を思い、頼まれもしない文集づくりに、下宿先で夜な夜な鉄筆を握った。
カメラも買った。フォーカルプレーンシャッター付き一眼レフ。
当時の貧乏少年には贅沢で、唯一の資産。それまで無かった写真同好会を数名で結成。
「合掌づくり」が絵になる、飛騨高山方面にも撮影旅行に行った。
文化祭では校史初の写真展を開いた。
・・・・・・ときめき、かつ充実の日々だった。





