ロッテキャンプ入り

カテゴリー「振り向けば、六十路(むそじ)」は、過去のできごとを集めて綴る。

語呂がいいので「振り向けば初老(しょろう)」にしたかったが、初老は四十路(よそじ)。さばを読むワケにはいかず六十路とする。 これでもさばを読んだ

六十路は60歳のこと。正確には 「六十路半ば」が正しい


結婚十周年記念事業

鹿児島県立鴨池野球場に、日本シリーズ優勝の興奮も覚めやらない千葉ロッテが春季キャンプで来鹿した。
キャンプ地鹿児島到着は凱旋パレード(写真、下)。

lotte.jpg

ボビー・バレンタイン率いるロッテはキャンプ中、この球場近くの鹿児島サンロイヤルホテルに宿をとる。 ときにバカでかい若者とエレベーターで一緒になる。

 

昨シーズンの早い時期に、ロッテ優勝を予言された方がおられた。
にわかには信じられなかったが、的中
予言者ご本人も驚き、喜んでおられることだろう。
地元民としても嬉しいことだ

プロ野球に詳しくないが、この球場とロッテには思い出がある
監督は国鉄スワロ−ズの名ピッチャーでならした金田正一の時代
ファンサービスの一環に鹿児島を訪れた観光客に監督とのスリーショットをしてくれる。・・・

所帯を持って十年。ナニかいい十周年記念企画がないかと頭をひねっていた。
家族で外食するのも平凡だ。
shot.jpg 新婚客に扮し、 金田監督とスリーショットはどうだ!☆ 

しかし独りでは成立しない。恐る恐る堅物の家内に打ち明けた。

大反対かと思いきや、な、なんと
「うん、やろう、やろう!☆」 


ウキウキしながら準備にかかる
タクシーで乗りつけ、運転手がロッテ広報に依頼すればスムーズだと聞いた。
知り合いの運転手さんに理解と協力を求め、友情出演所望。


新妻らしい扮装に家内は化けた


※※金田監督と新婚時代写真

グラウンドのベンチ前に背の高い金田監督が近づいてきた。
暇そうな報道陣も居て、からかい半分に質問する。
「昨日はどちらにお泊りでしたか?」
周囲に圧倒されつつ、めげずに
「はい、宮崎です」


おりしも9歳の娘、7つの息子は登校中だった。


 
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また旅道中膝栗毛

オープンカー

ついにオープンカーを手に入れた。トヨタのレクサス(LEXUS)もいいが、ミヤタのネクサス(NEXUS)にした。
シートベルト装備なし、一方通行路の逆走可能。ライトは暗くなると勝手に点灯するスグレモノ。
昨年暮れ、マンションに移転した。
こういう所は一戸に一台分しか駐車スペースを提供しない。その一台分を相棒に譲り、片道15分の自転車通勤を一大発起。

自転車店のご主人が「20分を越えてから有酸素運動効果が始まる」と教えてくれた。
なにくそ!  15分でも往復で30分、10日で300分だ!☆


東海道中膝栗毛

リュウさん通信、テーマはユーモア

ネタ探しもあり、ユーモア、ユーモア、ユーモアと思いを巡らす日常を過ごすと、つい「ユーモア」の字句が目についてしまう。
「東海道中膝栗毛」もそうだった。

もともと、ユーモアとは駄洒落やジョークではない筈だと思っていて、求道者の如く、ユーモアの原点は一体なんぞや、と思い続けてきた。
そうした時には、いつも「東海道中膝栗毛」に登場する弥次さん喜多さんの言動がユーモアではない筈だ、と思っていた。しかし世間は、あれをユーモアだと定義するだろう、と気になっていた。
改めてこの書籍について、どう評されているかを知りたい。おそらく、ユーモアの字句が出てくるだろう。

「膝栗毛」は、江戸時代後期の戯作者、十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)の力作、代表作。

ご存知、弥次郎兵衛と喜多八が伊勢詣でを思い立ち、数々の失敗や滑稽を繰り返しながら東海道を江戸から京・大阪まで旅する様子を描いたもの。

インターネットで書籍紹介をみた。
そこには「笑いとユーモアが満ち溢れています」とある。

あ〜、やっぱり。

時代は未だ公器と認めていないものの、インターネットは準公器。
たかが「リュウさん通信」とはいえ、公器にいい加減なことを掲載できない。
出典を明確にするため「東海道中膝栗毛」を自腹で買った。
岩波文庫黄表紙の(上)と(下)。本体価格700円、二冊で1,400円。
問題は、こうした費用の発生があっても「リュウさん通信」の 執筆ギャラはゼロであることだ。

そこで「青少年の主張」

こういう弥次・喜多の言動を「ユーモア」の範疇に入れて欲しくない

ユーモアは「悩みや苦しみのさ中に、みられる」とのデーケン教授にも申し訳ない。
文学には人間の生き方が表現される、と中学生の頃、聞いていた。
弥次・喜多が企画する自分のお葬式は、棺桶に花火を仕込み、遺体と共に空に舞い上がるという、ふざけたものらしい。

その点で「膝栗毛」は文学とは言えないし、弥次・喜多のこうした生き方はユーモアではない。 あの死に方を、死の哲学の世界的な権威、デーケン教授は大いに嘆かれるだろう。


 
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