「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」。
この語は、「葉隠(はがくれ)」全体を象徴する。
新潮文庫「葉隠入門」で、三島由紀夫は「世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わったあとで、かえって自分の中で光を放ちだした」。
「自由を説いた書物」、「類のないふしぎな道徳書」だという。
「武士とは死の職業である。
平和な時代になっても、死が武士の行動原理であり、死をおそれ死をよけたときには、もはや武士ではなくなる」。
「武士は死ぬことなり」とは、なんともケタタマシイ。
そのスサマジイばかりの葉隠が、実は恋にも言及している。曰く
「恋の至極は忍恋(しのぶこい)と見立て候。一生忍んで思ひ死にする事こそ恋の本意なれ」。
「打ちあけた恋はすでに恋の丈が低く、一生打ちあけない恋が、もっとも丈の高い恋である」。
葉隠は、「誠の恋は忍ぶ恋」だと断言する。
忍ぶ恋は、片思い、プラトニック・ラブのこと。
プラトニックは辞書に
「男女間の恋愛が肉体を伴わないときに用いられる」とある。
富士には月見草がよく似合う。
リュウさんには片思いがよく似合う。
リュウさんの忍ぶ恋・・・
還暦を過ぎるまではと内緒にしてきた。
姓は出さない。名を邦子(くにこ)と言った。
自宅敷地内の離れに、邦ちゃんの祖母と叔母が住む。
そこにお邪魔した。
行くと必ず邦ちゃんを呼んでくれ、明るい声で邦ちゃんはすぐにやってきた。
修学旅行に行った、スキーに行ってきたと言っては、写真を見せ合ったりした。
当時はハイキングやサイクリング、海水浴が若者たちには最高のレジャーだった。
今で言う、合コン。
恐る恐る邦ちゃんを誘った。
気持ちよく引き受けてくれ、ほかに数名を連れてくるという。
市立桜台高の女学生、こちらは市立向陽高の男ども。
名古屋駅集合。
名鉄電車に揺られ、三重県の鈴鹿山麓まで日帰りキャンプに行った。
ワイワイがやがや、ナニをやっても嬉しかった。

電車の往き返りも含め、ほかの女生徒とは気軽に談笑できるのに、
何故かグループの中に居る邦ちゃんにだけは、ついに話しかけることができなかった。
邦ちゃんは高校演劇部の部長さんだった。
部員の中には松原智恵子もいるという。
名古屋の風呂屋の娘だ。
デビュー当時、そこの銭湯が流行った、とかと聞いた。
松原智恵子には、とんと関心がなく、邦ちゃんだけが気になった。
邦ちゃんが入院した。
盲腸の手術だったように思う。
病院に見舞った。
「人の難に逢うたる折、見舞いに行きて一言(いちごん)が大事のものなり。その人の胸中が知るるものなり」(葉隠聞書)。
自転車にはかなり遠い道のり。
ものともせず、ウキウキしながら、ペダルを踏んだ。
な〜んで、入院見舞なのに、ウキウキするのさ!
病室で母親に初めてお会いした。
ごくごく普通のいい母親なのに、緊張が極まる。
「必ず幸せにします。僕に邦子さんをください」。
それを言う場面でもなかった。
他愛ない初対面の単なる挨拶。
なんとか上手く言えて、ことのほかホッとした。
邦ちゃんが自宅の前で、背も高くてかっこいい男子生徒と二人、楽しそうに話しているのを見た。
そいつは、ほんっとにカッコ良かった。
それを見てから、邦ちゃんの前に現れるのは止そうと決めた。
その後、それなりに虚(むな)しさは続いた。
それでも、いい余韻がいまでも残る。
何故、いい余韻が残るのか。
「もう来ないでくれ」と、一方的に言われたワケでもなかった。
卒業を控え、祖国の中心、江戸に出ようという「ほかの関心」があったからだろう。
女性はすべからく、「可愛くて、か弱く美しいもの」だ、と昔もいまも思っている。
小指と小指をからませたこともない。指一本、触れてはいない。
生きて再び、会うことはない。
「一生打ちあけず、思ひ死にする恋」、
「最も丈の高い恋」・・・、な〜んちゃって!
45年ほど前の我が「忍ぶ恋」、
今宵はここまでに致しとう存じます。
映画「佐賀のがばいばあちゃん」を観た。
吉行和子扮する、がばいばあちゃんは、「明るい貧乏」と「暗い貧乏」、貧乏には二通りあると説く。
当時はみんなが貧乏だったから暗い貧乏はなく、世の中は明るい貧乏だらけだった。
佐賀といえば、三島由紀夫著「葉隠(はがくれ)入門」(新潮文庫)を読んだ。「葉隠聞書(ききがき)」、略して「葉隠」は佐賀、鍋島藩の山本常朝(じょうちょう)によるものだ。鍋島藩の佐賀城は、別名「葉隠城」と言われたという説もある。
「葉隠聞書」については、次号でもっと触れる。
「佐賀のがばいばあちゃん」の時代は、高度成長への助走期。庶民の「三種の神器(じんぎ)」が電気洗濯機や白黒テレビの時代。モノを作れば売れる世相の始まりだった。
リュウさん少年も明るい貧乏だったが、それなりに充実していた。
名古屋の定時制高校普通科。定時制は全日制の対語で、夜間高校。
新潟の山奥育ちは泳げない。水泳部に入った。
顧問教官からクレーム。
「泳げないのに入ったのか?!」 「はい、泳げないから入りました」
泳げるようになった。
バスケットボール部が長かったが、ついに正選手にはなれなかった。
生徒会活動や弁論部、はたまた英語クラブだなどと、各部を渡り歩く日々を過ごした。
弁論部にまで何故入ったのか分からない。誘われるまま、ほいほいと承諾していたのだろう。大阪の弁論大会に出た。「それで訴えているつもりか!」と、聴衆から野次が飛んだ。当然だ。本来の代表が行けなくなり、下手くそな自分が代打だった。
上級生との選挙に勝ち、生徒会長を一期やった。
お蔭で成績優秀・・・!
学校行事扱いで希望者をスキーに連れていってくれた。
スキー発祥の地、新潟育ち。俄然ゲンキが出た。ツアーには70〜80人が参加。
初心者が多い。指導の都合もあるのだろう、腕前ごとに10人ずつの班が編成され、ゼッケン番号が順位を示す。
道産子が居たせいか、自分の限界か、3番から上にはなれなかった。
夏休みには、登山にも学校から何度も連れていって貰った。
学校行事扱いということは、教育的観点も含まれるのだろう。参加者は授業後に残って、山岳知識や登山用具の扱い方などの指導を受ける。
軽い乗鞍あたりから入り、成長しても槍ヶ岳ふもとの涸沢(からさわ)止まりだった。
そのうちに魅せられ、素人仲間3人で穂高縦走を企てた。友人同士でリーダー不在、体力づくりや事前準備、山岳知識不足の暴挙。
目標の縦走は果たせなかった。
この記憶が40年経ってよみがえり、「北アルプス山麓歩き」を趣味に加えた。
登山ではなく、まさに「山麓歩き」。穂高連山を仰ぎ見て、梓川(あずさがわ)の岸を、もくもくと歩くことしか出来ないが、なんとも言えない荘厳さや爽快感がある。
謄写版は、ガリ版や孔版のことで、往時の軽便印刷方式の主流。
テスト用の問題集や各種文書は、教師が自分で執筆・編集・印刷をした時代だ。
謄写版器具一式を購入。
数名の級友に無理やり原稿を依頼。クラス中が喜び驚く顔を思い、頼まれもしない文集づくりに、下宿先で夜な夜な鉄筆を握った。
カメラも買った。フォーカルプレーンシャッター付き一眼レフ。
当時の貧乏少年には贅沢で、唯一の資産。それまで無かった写真同好会を数名で結成。
「合掌づくり」が絵になる、飛騨高山方面にも撮影旅行に行った。
文化祭では校史初の写真展を開いた。
・・・・・・ときめき、かつ充実の日々だった。





